ちょっと前に書いた香港の阿虫さんの言葉を読んでこんなことを思った。
料理にしても絵にしても、文章にしてもその人が向き合っている愛情というかエネルギーみたいなものが小さな小さな粒子になってその食べ人、読み手、見る人なりに伝わるんじゃないかと。。
料理を作るときは「これをこうしたらおいしくなるんじゃないか。」とひたすらおいしくなることを考えて手を動かし、耳で音を聞き、目で火加減を見たり、鼻でにおいをかいで舌で味見して、脳をフル回転させる。そうやってたったひとつ「おいしく食べてもらう」という目的のために意識を集中させる。
絵にしても幸せな気持ちでのびのびと書いたものには小さな喜んでいるような粒子があふれていてそれを見た人にも伝わって 見ていて気持ちいい絵になり
逆に陰鬱な気持ちで描いたものはどーんと重くなる絵だったり、
自分の生命力をぶつけたようなものは、ものすごい力を感じる絵だったり。。。
もしかしたらそういう見えないけれど絶対に存在するエネルギーを私たちは毎日やり取りしているんじゃないか。
それを見たり聞いたり感じて、これはいい、悪い。気持ちいい、わるいと判断しているのか。(もしかしてそういうものを波動とよぶのか?)
たとえばお百姓さんが愛情を込めてこだわって丁寧に作った玄米をすごくおいしいとかんじたり、適当な気持ちで農薬をばんばん巻いて作ったお米をあまりおいしくないと感じたり。
そういえばアメリカで食べたファーストフードはことごとくまずかった。多分、大量生産でできるだけ多く、安く仕入れた素材を、時給のためだけに手を動かしているバイトの人が作っているから?
こういうものがおいしいともおいしくないとも感じなくなってしまったら、いいエネルギーを感じる自分のエネルギー自体もなくなってしまうのではないか。
よく考えると、すごく愛情のこもったおいしいご飯を食べた後はそこにいるひとみんなが、面白いことをいったり、顔を真っ赤にして笑ったりいいエネルギーを出している。
それは誰かのお母さんが作った料理であったり、どこかのレストランのシェフが作ったものであったり。
一流のプライドを持ったレストランの食事はやっぱりそういう一流のこだわりと、誇りと愛情が入っていると思う。別にそこは高くなくても、有名でなくてもいいんだろうけれどやっぱりそういうこだわりと誇りと愛情をもって作って、食べている人がいいエネルギーを出している店はやっぱりそういう雰囲気にあふれていて、いいお店となってやっぱりみんなに愛されていくんだろう。
というわけで自分の作るものには愛情を込めたいと思う。それが受け手に伝わっておいしいものだったり、 いい作品と呼ばれるようになるんだと思う。
やっぱり投げやりな気持ちでつくったものは投げやりなものでしかない。
(もしかしたら愛情の反対は憎悪ではなくなげやりなのか?)
もし今めんどくさいなあ、と思っていたり、いやだいやだと思っていたとしたら
ひとまず休んで気持ちをニュートラルにして、楽しい音楽を聴いたり、好きなことをしてエネルギーをためてからから、まず一度好きになってみる。
(たぶん受験勉強とか資格の勉強でどんなにがんばっても受からないというのは
たぶんもう嫌になって投げやりな気持ちになっているのにそれを押し込めてがんばってがんばってやっているからなのかもしれない)
まず楽しい気持ちになってから、いまそれができることに感謝して、それに一番のプライド(自分の出せる最高の力)をかけてみる。そしてその中をまるで泳いでいるかように没頭する。
日本のものすごく腕のいい伝統工芸の職人さんたちはものを作る前に祈るという。
そういえばバンコックにあるタイ古式マッサージのお店でもまず施術をする前にみな手を合わせてひととき黙祷し、受ける人の呼吸に自分の呼吸を合わせているよう。
たぶんこれは手を合わせることで自分のエネルギーと相手のエネルギーが交流しやすくなるのだろう。気持ちの入っていない一方的なマッサージは苦痛に感じるだけだったりするから。
ヒーリングをしている友人は肩たたきであれ、マッサージであれ愛情が交流しているものはヒーリングであるというようなことを言っていた。
アメリカインディアンの教えにも「祈りを形にするとアートになる」というのがある。
アパッチ族の格言にも「神の名は無意味、世界にとって本当の神は愛なのだ」とある。
目の前にあることに心底愛情を向けること、それがエネルギーとなり
それを受けた人にエネルギーとして伝わる。それが波のように徐々に伝わって世界中に伝わるときに世界は平和になるのかもしれない。
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